コリアンダンサー/コリアンパーカッショニスト・趙恵美さんインタビュー

なぜ、あなたは輝きはじめたのですか?
だから将来を考えたとき、プロのコリアンダンサーになりたいと思いました。
自分が在日コリアンであることで葛藤を持つ場面もありましたが、そういう複雑さも含めて自分は自分だと受け入れられるようになった頃、あることに気づいたんです。
北と南の両方を見てきて、そして日本に住む私だからこの3つの文化全てを表現できる。それは私の特権なのではないかと。
そう考えてからは、もっと自由に自分の表現をしていきたくなって、フリーで活動することにしたんです。
パフォーマンスを通じて人に喜怒哀楽を共有する!コリアンダンサー/コリアンパーカッショニスト・趙恵美さん
── 現在の活動について教えてください。
「遊合芸能チングドゥル」というグループで、コリアンダンサー・コリアンパーカッショニストとして活動しながら、「スタジオ・長田教坊(ながたきょばん)」でコリアンダンスとコリアンパーカッションの講師を務めています。
── グループでの活動では、どのようなことをしているのでしょうか。
小学校や中学校、地域のイベント、結婚式の披露宴などでの公演、グループでの自主公演も行なっています。
お声がけいただいたらどこにでも飛んでいきますね。
昨年は沖縄、九州、四国と日本各地へ行きました。
グループはコリアンダンサーの私、シンガー、和太鼓、コリアンパーカッションの4人で、活動を始めて12年ほどになります。
── それでは、スタジオでの活動について教えてください。
スタジオは2016年の11月に開きました。
建物の1階はスタジオ、2階が自宅になっています。
もともとは個人レッスンをしていて、生徒さんがいらっしゃるところに出向いていましたが、子どもを産んでからは毎回子どものための場所を用意してもらうのも大変で…。
それで自宅兼スタジオを構えて、今は木曜日以外の平日にレッスンを開催しています。
── コリアンダンサーになろうと思ったきっかけは、何かあったのでしょうか。
高校で進路を決めるときに、ダンサーとしてプロになりたいと思ったからです。
9歳でコリアンダンスを始めてからずっと踊ることが大好きで、時間さえあれば踊っている子どもでしたから。
それで卒業後にプロの朝鮮舞踊団に入団して、コリアンダンサーとしての活動を始めました。
ダンスを辞めなければならなくなった最初の壁
── プロのダンサーとなって、最初にぶつかった壁は何ですか。
入団2年目に、北朝鮮の平壌(ピョンヤン)での研修を受けに行った時のことです。
私がヘルニアを患っていたことから、先生にダンサーを辞めるように命じられて、強制的にパーカッショニストへ専攻を変えられたんです。
ダンスをしっかり学ぶつもりで本場の地へ来たら、ダンサーを辞めなければいけないなんて言われても、その場ですぐには受け入れられなくて。
とてもショックでした。
── それほどのショックを受けて、どのように乗り越えたのでしょうか。
とりあえず3日間だけ思いっきり泣いて、気持ちを切り替えようとしました。
研修には団の同期のメンバーも参加していて、彼女たちは毎日どんどん学んでいくんです。
いくらショックだったとしても、私だけ何も学ばず断念して日本に帰るという考えは持てなかったんですね。
だから泣ききった後は、パーカッショニストとしてリズムを理解していたら、また腰が良くなれば踊ることに役に立つと頭を切り替えて、残りの期間で必死にリズムを学びました。
それで、日本に帰ってきてからはパーカッショニストとして活動することになりました。
ただ、数ヵ月習った程度ではプロとして不十分で舞台に立てないのと、太鼓は朝鮮よりも韓国の方が盛んだったこともあって、もっとパーカッショニストとして学ぼうと韓国の舞踊団に移ることにしたんです。
この記事のシャイニスタ

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